
弓 道
弓道の歴史
弓道の誕生
弓道の歴史は天照大神の御世(BC700頃)以前まで遡る。
日本書紀には、「天照大神、千箭の靱・五百箭の靱を負い、臂に稜威の高鞆を着け、弓弭振り起て…」とあり、
また、「天稚彦、天鹿児弓・天羽々矢をもって雉を射殺す」ともある。
弓道の歴史は獲物を取るための手段として、また戦のための武器として剣術、体術とももに発祥したものと考えられる。
しかし、気をつけなければならないのは、日本の神話(日本書紀や古事記)には弓を創造したという記載が一切無いことである。
中国には「易」撃辞伝に黄帝尭舜−木を弦して弧と為し、
木を削りて矢と為し、弧矢の利、以って天下を威す−があり、また「世本」には皇帝の臣「牟夷」が矢をつくり、
揮が弓を作ったとする伝説もあるが、日本にはそれがなく、
それがないということは語りえないはるか悠久の太古に弓矢が存在し、
また日本民族がこの国土に渡来してきたときにはすでに弓矢を有していたとも考えられる。
古墳・奈良時代
天武天皇の時代には、伊勢神宮年式遷宮の制が定められ今日に至っているが、
706年には文武天皇が大射禄法を定められたことが「続日本紀・類聚国史」より明らかとなっており、
これらの時代に即位した天皇が狩をしたこともこれらの書物により伝えられている。
また、753年には正倉院に丸木弓100張、別式3張、矢3,381本を収納したことが東大寺献物帳に明記してあり、
現在でも丸木弓53張、矢3,703本が現存している。
さらに、この時代に確立されたものといえば騎射である。
「続日本紀」によると、聖武天皇の御世には坂東九国の軍三万人に騎射を教習し…」という記述もあり、
また天覧した旨の記載もある。
この頃より弓が弓術として確立され、礼法と相まって発達したものと推測できる。

平安・封建時代
この頃には、騎射と歩射の発達と流派が出現してくる。
それに伴い、弓具の変化も見られ、鞆がすたれ、「ゆがけ」が考案された。また弓も伏竹弓や三枚打弓へと発展し、その弾力を著しく増した。
これに連れ、矢も篠竹などに変化していった。
騎射は、笠懸や流鏑馬、犬追物などが誕生し、今日に伝えられている。
歩射は奈良時代に大成した大射が平安時代に入って、射礼(じゃらい)として整理され、
また賭弓(のりゆみ)など年中行事の一環としても行われるようになり、通し矢なども行われるようになった。
流儀は武道という武道に幾多もあり、弓道も例外ではない。
現代における日本弓術の流儀としては、次のものが挙げられる。
鹿島流 太子流 秀郷流 伴流 紀流 神道流 日本流 尊流
逸見流 武田流 小笠原流 日置流 大和流(江戸時代に大成)
このうち、尊流・神道流・日本流については、当時にそう呼ばれていたのではなく、後世において呼称したものである。
現在、流儀というと、伝承者や師範、師範代などがいて、奥義などがあるものを創造するが、
当時の流儀というのは、単に祖先が誰であるかを意味するものであり、
現在の流儀の定義は室町末期移行のものであると考えられている。
逸見流・武田流・小笠原流は清和源氏の家系であり、武田流の始祖、武田義清の子が逸見清光であり、
その孫・小笠原長清が小笠原流の祖とされている。
日置流は、日置弾正正次により室町時代に確立され、吉田重賢が日置弾正正次に伝えたことにより、
吉田派も生まれることになった。
さらに、後年において、吉田流は口伝されていくごとに流派を生むことになる。
主なものとしては、出雲派、雪荷派、印西派、道雪派等があげられる。
また、日置流の別派として、竹林派も誕生している。
江戸時代
江戸時代の射法については殆ど今日と変わりはない。
この頃に台頭していたのは日置流で、小笠原流は幕府直轄の流派であった。
この時代に森川香山が大和流を興したが、彼は日置流寿徳派を父に学んだのを最初に、
竹林派、小笠原流、武田流、逸見流、道雪派、片岡派、印西派を学び、後年において大和流を創始している。
弓術は武士の必須科目であり、幕府が旗本や御家人から役人を選出させる基準にもなっていたが、
1862年には幕府講武所の課目から除かれた。
明治時代以降
明治維新後の弓術は衰退期があったが、他の武道も同様であった。そのため、1895年、京都に大日本武徳会が設立された。
同時期に竹林派の本多利美が小笠原流の正面打起しを取り入れた。その後、孫・利時の代から門人が本多流と称し、今日に至っている。
1942年、大日本武徳会は政府の外郭団体として官民合同組織となった。
また、終戦直後にはGHQ指導下のもと弓道授業中止の文部省通達がだされ、翌年には大日本武徳会が解散し、全国弓道連盟をつくったが、米国により認められず、1947年、全日本弓道連盟(初代会長:宇野要三郎先生)を結成。
その後、日本体育協会にも加盟し、現在に至っている。